みなさんこんにちは!
夜な夜なラッパーとしても活動している中林です。
ラッパーと言えば、最近は若い子を中心に大人気で、TVのバラエティー番組やCMでよく目にするようになりましたね。
TV番組などで即興で韻を踏んでいく「フリースタイルバトル」を見たことがある、という方も多いのではないでしょうか?
ラップは基本的に音楽ジャンルでいえば「ヒップホップ」というジャンルになります。
みなさんのイメージにある通り、アメリカの黒人達を中心に自然発生した路上文化の総称でもありますね。
では、そんな国や人種すら違う文化がなぜ日本でも人気になったのでしょうか?
そもそもヒップホップはどのように出来上がり、どのように日本へ入ってきて広がっていったのでしょうか?
今回は「ジャパニーズヒップホップの歴史を一挙に解説」と題して、その辺りのことを解説していきたいと思います。
目次
1、日本にヒップホップブームが起きるまで
【1970年代】ヒップホップの始まり
そもそもヒップホップというカルチャーは、1970年代後半、ニューヨークのブロンクスと言うエリアの黒人、ヒスパニック系を中心とした貧困地区で生まれました。
この時代のニューヨークは想像を絶する荒廃ぶりだったそうです。
当時大不況で財政難だったニューヨーク市は、元々貧困層が集まっていたブロンクスエリアの治安維持を放棄し、完全に無法地帯と化します。
ボロボロのビル、落書きだらけの地下鉄、放火されたあとそのまま放置された廃墟群、蔓延するコカイン、フードを目深に被って交差点を行き来するギャング、そして時折響く銃声。
まさに戦場さながらの惨状だったといいます。
しかし、そんな全く希望のない場所でも、彼らは遊び心を決して忘れませんでした。
お金が無くてディスコに行けなかった彼らは、なんと空き地にターンテーブルとスピーカーを持ち込んで勝手にパーティーを開いて大騒ぎを始めるのです。
そのパーティーで、
- 音楽を選曲し、次から次へと途切れなくプレイするDJ
- 音楽に合わせ、観衆を煽るような言葉を投げかけるMC(ラッパー)
- ダイナミックな体の動きで自分自身を表現するブレイクダンサー
- 路上をオリジナリティ溢れる絵で埋め尽くすグラフィティライター
が活躍しだし、そのカルチャーを総称して「ヒップホップ」と名付けられました。
その全く新しいカルチャーは、メディアを通じてニューヨークだけでなくアメリカ全土へ、そして世界へ
一気に広がっていきました。
【1980年代】ヒップホップカルチャーが日本に浸透
1980年代に入ると、少しずつ日本にもヒップホップカルチャーが浸透し出します。
1986年にアメリカのヒップホップグループ「Run-D.M.C」がエアロスミスの名曲「Walk This Way」をカバーすると日本でも大ヒット。当時彼らがきていた縦3本線のアディダスのジャージがバカ売れしたりなんかもします。
このころから、日本の感度の高いミュージシャン達は、ヒップホップで多用されていた韻を踏みながらしゃべるように歌う「ラップ」という歌い方を取り入れるようになりました。
1986年にアルバムを出したいとうせいこうや高木完など、「日本語ラップのパイオニア」と呼ばれている彼らが台頭し始めたのがこの頃です。
【1990年代】Rhymesterやキングギドラなどの本物の「日本の」ヒップホップアーティストが出現
1990年代に入り、ようやくアメリカのヒップホップを聴いて育った、つまりはヒップホップカルチャー全体や歴史を自分たちの中に消化し、ライフスタイルとして体現しているアーティスト達が日本でも現れはじめます。
- You The Rock
- Rhymester
- キングギドラ
- Microphone Pager
- Buddha Brand
- Soul Scream
などがそれに当たります。ヒップホップ好きなら一度は聞いたことがある名前ではないでしょうか?
Soundtrack’96 【Copy Control CD】 : YOU THE ROCK★ | HMV&BOOKS online – CTCR-14315 より引用
彼らの中には、実際にアメリカへ渡りヒップホップカルチャーの本場で活動したり、そこで結成されたクルーであったりする者もいました。
「ラップやってみました」ではなく、「これがヒップホップだぜ!」という大きな違いがあったんです。
そのヒップホップ濃度の高い作品群は、ストリートから圧倒的な支持を集めました。
そして1996年、彼らが中心となって日本初の大型のヒップホップフェス「さんぴんキャンプ」が開催されます。
土砂降りの中での大熱狂が今でも語り草になっているこのイベントは、ジャンルとしての「ジャパニーズヒップホップ」の産声でもありました。
さんピンCAMP、20年ぶり復活 伝説的ラップフェス:朝日新聞デジタル より引用
勢いそのままに90年代後半には多くのラッパーたちがメジャーデビューを果たし、ヒットチャートにも顔を出すようになります。
1999年のDragon Ashの「Grateful days feat.ACO,ZEEBRA」はチャート上位を席巻。
ZEEBRAの「俺は東京生まれヒップホップ育ち/悪そうな奴は大体友達」というパンチラインと共に、一気にヒップホップをメジャーシーンへと押し上げて行きました。
2、ヒップホップバブル、冬の時代、第二次ラップブーム
ここからは2000年代に突入です。
ブームは起こった前半から
【2000年代前半】第1次ラップブーム
同時にジャパニーズヒップホップシーンは「ブーム」、「バブル」などとのちに呼ばれる状態に突入していきます。
「ミュージックステーション」や「笑っていいとも!」などにラッパーたちが相次いで出演しました。(You the rockのいいとも出演回は必見!彼のキャラが炸裂していてとても面白いですよー)
本場アメリカで超有名な名門ヒップホップレーベル「Def Jam」の日本支部が創設、華やかなジャパニーズヒップホップを世に送り出したり、
ヒップホップシーンにも多大な影響を与えてきた世界的ブランドのNIKEが、ジャパニーズヒップホップクルーとコラボしたり(Nitro Microphone Underground × NIKE Delta Force)、、、
2000年代前半はまさにお祭り状態です。
1978年生まれの才能豊かな世代がブレイクしたのもこの頃ですね。
- OZROSAURS
- 般若
- MC漢
- Tokona-X
- D.O
- Hidaddy
など錚々たる顔ぶれが並びます。
【2000年代後半】冬の時代
しかし2000年代後半になるとブームの終焉、CDから次の音楽フォーマット(配信とYoutube)の出現に伴うCD不況、そしてリーマンショックを発端とする世界恐慌を受けて多くのラッパーがメジャーレーベルとの契約を更新できず、消えていってしまいます。
Rhymester,Zeebraが武道館に到達し、AK-69やDJ PMXを代表とするアメリカ西海岸のカルチャーをバックボーンとするアーティストが10代から人気を集める一方、ヒップホップ専門誌「blast」の休刊、古くからヒップホップシーンを支えてきた渋谷宇田川町のレコードショップ、そして流通会社でもあった「シスコ」の閉店など、「冬の時代」を迎えます。
ただ、アンダーグラウンドシーンではアーティスト達が少数精鋭化していった分、この時期のジャパニーズヒップホップは非常にレベルが高く、カッコいいのも確かです。
- Seeda
- Norikiyo
- Anarchy
- Simon
- Shingo西成
- 鬼
などがこの時期に頭角を現した代表格と言えるでしょう。
このように、YouTube、配信が既存のシーンの様相を大きく変え、多くのアーティストを淘汰しましたが、その後2010年代のヒップホップシーンを作り上げていったのもまた、ネット上のメディアでした。
【2010年代】YouTubeと第2次ラップブーム
YouTubeからKohhやAKLOそしてSALUが頭角を現す一方、アンダーグラウンドシーンではDown North Campが出現、黒い(つまりは黒人のようなリズム感とフロウ)ヒップホップが好きなファンの間で支持を集めます。
そしてアメブロで一時代を築いたサイバーエージェント社(社長の藤田晋氏は大のヒップホップファンを公言しています)がヒップホップメディア「Amebreak」をネット上に創設。
さらにはUMBや戦極MCバトルなどのフリースタイルバトルがYouTubeで多くの再生回数を記録し出すと、BSスカパー!で「高校生ラップ選手権」が放送開始します。
それが大きな話題となったところを見たサイバーエージェント社はすかさずテレビ朝日の深夜枠を買い取り、あの有名な「フリースタイルダンジョン」がスタート。
「フリースタイルダンジョン」般若×R-指定の“闘魂伝承マッチ”に絶賛の嵐! (1/2) | 芸能ニュースならザテレビジョン より引用
若い層の間で一気に人気となり、再びブーム到来です。
その勢いは凄まじく、高校生のMCバトルの大会が武道館で開催されるほどでした。
テレビのバラエティー番組やCMにラッパーが起用されたり、人気ラッパーの新曲のMVを大企業がタイアップして作ったりなんかもまた、当たり前になってきましたね。
ファッション面でも大きく影響を与え、ポロやアディダス、リーバイス、フィラなどがこのムーブメントに乗っかり、「ヒップホップ黄金期」と呼ばれる90年代にリリースしたラインの復刻を乱発するなんてこともありました。
さらにインターネットの影響でヒップホップが爆発したのは日本だけではなかったのです。
実は全世界同時進行でした。
アメリカでは、ヒットチャート上位をヒップホップが独占、ジャンル別の売上高でも長い間不動の1位だったロックをついに超えるという快挙を成し遂げたのです。
「ヒップホップの売上がロックを超えた」 売上データから読み解くU.Sシーン(前編) | SUKIKATTE | SUKIKATTE より
Chance the Rapperというスターラッパーはなんと音源を1枚もリリースせずにインターネットの力だけでトップまで駆け上がります。
いやはや、面白い時代になってきました。
2010年代後半のトレンドワードの1つは「ヒップホップ」であることに間違いないと思います。
3、2020年代のジャパニーズヒップホップはどうなっていくのか
2019年、Red Bullが「Asia Rising Documentary」と題してアジア各国のラッパーにフォーカスしたドキュメンタリーをYouTube上で公開し、大きな反響を呼びました。
今世界中から、ヒップホップ空白地帯だったアジアに対して熱い視線が注がれているのは間違いありません。
今やK-popはアメリカ市場でも大人気ですし、ベトナムでは個を殺す社会主義に反発するラッパー達が自由を求めて声をあげ始めています。
中国の共産党によるヒップホップの規制とHigher Brothersの衝撃も記憶に新しいですね。
フィリピンはもともとアメリカのカルチャーが根付いている国なので、英語を扱えるラッパーはたくさんいます。
ここ日本でも、KohhのEU圏での人気は相変わらず高いですし、
- Kojoe
- MIYACHI
- Awich
- Axis
- OYG
- Kid Fresino
- Daichi Yamamoto
- Blumio
など、言葉の壁を越えるラッパーがどんどん出てきています。
彼らはYou Tube上で全世界の人に向けて、自らのアイデンティティを主張しています。
アーティストの人気度がCD売上枚数よりも、You Tubeの再生回数やSNSのフォロワー数で計られるようになった今、「ネット上でいかに多くの人に届けられるのか」はやはり重要なファクターになって行くと思います。
そうなると世界共通語を扱えるかどうかは重要になってくるのではないでしょうか?
あくまで僕の主観ですが近年、英語を喋れる日本人や、他の国にもルーツを持つ日本人が増えてきたとも感じています。
2020年代の末にはジャパニーズヒップホップというジャンルの中で、英語と日本語に分かれている、なんてこともあるかも知れませんね。
4、まとめ
お疲れ様でした!
今回は「ジャパニーズヒップホップの歴史を一挙に解説」しました。
まだヒップホップが日本に定着して30年ほどしか経っていませんが、かなりの紆余曲折と変遷、進化と淘汰を繰り返してここに至っていることがお分かり頂けたでしょうか?
ここでは一挙に解説して行ったので、今回紹介しきれなかったアーティストや名盤、出来事など、今後も紹介できたらなと思ってます。
最後まで読んで頂きありがとうございました!
ChillChair 中林
ジャパニーズヒップホップの歴史を築いた名盤について解説してみました。是非、読んでみてください。